禅寺 ZEN 闘病生活からの脱出
禅寺 ZEN
闘病生活からの脱出
闘病生活の苦しい試練の時期を越えて、
新しい一歩を歩み出す生命の力が湧いてきた。
子供の頃、近所のお寺の子供座禅会に何度か行った。
あまり記憶に残っていないが、
小学生から高校生までが自由に参加できたのだ。
母が再婚し新しい家族ができた時、
最初に暮らしたのは杉並区の高円寺である。
高円寺という名前の通り、辺りはお寺が立ち並び、
お線香の匂いがいつも漂い、朝夕に鐘の音が響いていた。
私はお寺の雰囲気が大好きで、
学校の帰り道によく立ち寄って静かな時間を過ごした。
境内は緑豊かで季節の花々が咲き、とても落ち着ける場所だった。
同級生の多くは、なぜかお寺を怖がって近寄らない、
私は一人で訪ね、住職さんとお話しするのが楽しみだった。
春に咲く桜は優美で華やかな存在だけど、
私は雨季にしっとり咲く紫陽花が好きだった。
紫陽花の花びらは微妙な色彩をしていて、
時に混ざり合い独特の色彩に変化しては、
私たちの疲れた心を癒してくれる存在だ。
私は初夏が一番好きだったが、次に雨季が好きだった。
厳しい暑さの夏がやってくる前に、
植物たちは揃って、たっぷり水分補給して夏に備えるのだ。
植物たちにとって雨季は天国であり、最高のシーズンである。
紫陽花のそばには、きまってカタツムリがいて、
優雅に雨の雫と一緒にこの瞬間を楽しんでいるように思えた。
そんなカタツムリをじっと観察していると、
ゆったりしたその動きはなんとも言えず、愛おしくなる。
“南無妙法蓮華経”
私が幼少の頃に住んでいた杉並には、
数多くのお寺があり、
日蓮宗、浄土真宗、禅宗、真言宗、天台宗、
その他にも様々な宗派のお寺が存在していた。
我が家に来るお手伝いさんは日蓮宗の信徒だった。
私は子供の時からお経が好きで、いつの間にか暗記してしまう。
お手伝いのおばちゃんと一緒に、両手を合わせ合掌しながら唱える。
“南無妙法蓮華経”
お経の持つ言霊や音霊には何か力が宿っていると子供心に感じていた。
現実世界で辛いことがあると、心の中で両手を合わせお経を唱えた。
“南無妙法蓮華経”
蓮の花は泥の中から這い上がり、美しい花を咲かせる。
この世の苦しみは“泥”に象徴され、魂のきらめきは“蓮の花”だ。
“蓮の花”がこの世のものとは思えないほど美しいのは、
多くの試練を乗り越え、自らを天に向かって昇華させるからだ。
後にスリランカに渡った時、
不思議な巡り合わせで出会った人は日蓮宗の僧侶だった。
きっと、子供の時に唱えていたお経の功徳かもしれない。
日蓮宗の僧侶との出会いがきっかけとなり、
私は1年余りスリランカのお寺で尼さんとして修行に励んだ。
今日も天に鳴り響く調べに心を合わせ、そっと唱えた。
“南無妙法蓮華経”
曹洞宗の禅寺
私の母方、枝家の菩提寺は曹洞宗の禅寺である。
大人になって最初に訪ねた座禅会も曹洞宗の禅寺だった。
後に眼光鋭い禅の老師に出会い、
いのちの源に触れたのも曹洞宗の禅寺でのことである。
人生の中で数多くのお寺を訪ねたけれど、
一番仏縁深く感じるのは曹洞宗の禅寺である。
道元禅師の宝珠の言葉は素晴らしく、
何かになろうとするのではなく、何かであるこを知れと言う。
道元の言葉は、時に優しく、時に厳しく、心に響く。
“座禅は則ち 大安楽の法門なり”
闘病生活を越えて、
新しい一歩を踏み出した私を最初に支えてくれたのは、
東照寺、禅の老師 “伴 鐡牛”である。
私の心眼を開き、物事の道理を教え、
自らのいのちと向き合う時を与えてくれた。
東照寺
1988年12月の厳冬、曹洞宗・東照寺にて大接心会
12月1日から12月5日の5日間、只管、座禅をするのである。
私は大接心会がどのようなものかも知らず、調べることもなく、
東照寺に電話を入れ、
大接心会に参加したいと申し込みをした。
お寺から幾つか質問が返ってきた。
大接心会を受けたことはありますか?座禅ははじめてですか?
私は座禅は幾度となく参加してきたが、
大接心会への参加は今回がはじめてですと伝えた。
すると、この週末の日曜日に座禅会があるのですが、
こちらに参加できますか?と。
その時、大接心会について説明しますと言われたので、
週末の日曜日の座禅会に参加することにした。
老若男女、様々な人が集い、座禅会は賑わいをみせた。
みんなが席に着くと老師がこの場にやってきた。
小柄で細身、眼光が鋭い印象を受けたが、
“伴 鐡牛”老師を見て、どことなく安心した。
座禅会へ参加した人たちみんなで和菓子とお茶を頂き、
老師やお弟子さんたちの話に耳を傾けた。
帰り際に、大接心会の申し込みをしてこの場を後にした。
いよいよ大接心会の日がやってきた。
何も知らない私は、
大接心会とは日曜座禅会のようなものだと勝手に思っていた。
しかし全くの的外れで、全く違うものだった。
続く…。
1985年国内の禅寺にて精神修行を開始。12月の厳冬、曹洞宗・東照寺の大接心会にて伴鐵牛老師により“見性”を許される。“見性”という体験は真の自己の姿を垣間見るものであり、分別妄想を超えた超意識の体験である。